占いコラム|陰陽五行説と干支占いの秘密
2018年10月14日
「えと」と聞くと殆どの方達が、子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・・・・・・亥(い)の十二支を思い浮かべることでしょう。
漢字に変換してみると「干支」と変換されるように、「えと」とは十干(じゅっかん)と十二支(じゅうにし)を合わせたものを言います。
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干支(十干・十二支)占いの歴史的背景
干支の起源
古代中国ではインドから伝わった十進法(1~10までの算用数字)を使っていましたが、この1から10までの順序数を示すものとして、甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)の十干に置き換え、最も重要視してきました。
干支の十干・十二支は中国最古の王朝、殷王の時代(紀元前1500年頃)には、すでにかなり普及していたものと思われます。
それは亀甲や獣骨に刻まれた甲骨文字や金属器具の銘文などにも多くの記録が残されており、殷王室の系図を見ても主癸、天乙、太丁、外丙、などと十干が使われていました。
また、干支は日付けや季節を現すためにも使われています。
これは日本書紀にもたくさん登場している「干支紀日法」という文献で明らかになっています。
ただ、干支がいつ頃に生まれたかは諸説あり、起源は定かなところはハッキリしていないのが事実です。
五行説の起源
五行説が生まれたのは、西暦前400年、中国の戦国時代の頃であるといわれています。
古代中国の人達が天体を観測するようになった時、太陽と月の他に太陽系の惑星(水・火・木・金・土の惑星)が、お互いの位置を崩さずに恒星の中を運行するのを知り、この五惑星がこの世のあらゆる出来事の運命を司るものと考えました。
そして、彼らが当時生活してゆくに必要な素材、水(みず)・火(ひ)・木(き)・金(かね)・土(つち)にちなんで、その惑星に名を付ける一方、この世の事象すべてを五つのグループに分類しました。
これが五行説の元となり、五行では木とは動植物のように生命を持ち活動しているもの、火とはものの燃えつつある状態、土とは大地であり、金とは金属を示し、水とは液体状のものを言い、正・旺・休・収・死の五段階で見るもので、木を以て正とし、火を以て旺とし、金を以て収とし、水を以て死にあて、さらに止まって動くことのない大地を休として土の性のあてています。
陰陽五行説と十干
東洋独特の思想とも理論ともいえるのですが、これを形成している「陰陽説」と「五行説」は、もともと別々に起こったもので、両者とも起源はかなり古いものです。
陰陽説は、この世の森羅万象を陰と陽とに分け、その陰と陽のバランスが取れているか否かによって、あらゆる現象の生成や変化を解明するものでした。
その陰陽説と五行説がお互い密接な関係を保って発達し、漢の時代になると両説が引きあい一つのもの「陰陽五行説」となりました。
十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)に対し、五行(木・火・土・金・水)それぞれに陰と陽(兄と弟)を配して、甲(きのえ・木の兄)、乙(きのと・木の弟)、丙(ひのえ・火の兄)、丁(ひのと・火の弟)・・・・・という具合になったのです。
陰陽五行説と十二支
十二支も天文学からきたといわれています。
星座には山羊座(やぎ座)とか獅子座(しし座)、蟹座(かに座)などと、動物の名前が付いているものも多くありますが、十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)を現す十二獣(鼠・牛・虎・兎・・・)がいつから結びついたかは、これもハッキリとしたことは判っていません。
現代でもアジア圏の多くの国では、日本と同じ十二支が使われているようです。
しかし、ね・うし・とら・・・・とか元々は動物の鼠や牛などと直接の関係はなく、十干の干は木の「幹」の漢字から作られたように、十二支の支は漢字の「枝」の字から作られました。
例えば、うし(丑)はクネクネと根を張るのを「紐」にたとえ、その糸へんを取り除いて丑となりました。
十干は天の象、十二支は地の象を現します。
そして、十二支にも後に陰陽五行が配され、甲寅(きのえ とら)、乙卯(きのと う)などと、よく皆さんも暦で見掛けるものになりました。
日本の暦の歴史
私達の祖先は農耕を営むにあたり、四季の移り変わりや台風、雨期を予測したり、その方角を少しでも正確に知ろうと努力しました。
その現れが暦となり、暦は九星術(気学)と共にあったと考えられます。
日本で最初に暦が使われたのは、西暦六百九十二年(持統天皇の時代)の元嘉暦というものでした。
当時の日本は中国大陸の隋、唐から技術や学問・制度を学ぶために遣隋使や遣唐使を派遣していました。
その中の一人、吉備真備が帰国した際、その頃中国で使われていた大衍暦という暦の指導書や測影鉄尺という太陽の影の長さを測定する棒を持参しています。
西暦九百二十七年(醍醐天皇の時代)になると、延喜式という天皇の勅命で編集した法令集があり、この中に天文・気象・時刻・暦学・占いなどに関するすべてを扱う「陰陽寮」という役所の規定がありました。
この陰陽寮には、占いの専門家とし「陰陽師」六名、陰陽師を教える「陰陽博士」一名、現代の塾生ともいえる「陰陽生」十名。
暦を作ったり暦学を教える「暦学博士」一名、暦学の学生十名。
天文学を教える「天文博士」一名、「天文生」十名。
水時計によって時刻を司る「漏刻博士」二名、時を知らせる係の「守辰丁」二十名などがいました。
これらの暦学博士たちが翌年の暦を作り、ときの天皇に奏呈した後に天下に布告されたのです。
日本では暦は朝廷のもので、十干十二支と中国から伝わった漢字で作られていましたが、慣行やしきたりなどの日程、行事などが綴られており、一般庶民には理解し難いものでした。
当時、賀茂家が暦学を、安倍家が天文学を世襲で担当をしていました。
その後、土御門家が暦学を受け持ち、明治の改暦まで続きました。
明治五年十一月九日太政官布告が発表され、その年十二月三日を明治六年一月一日とすることになり、旧暦(太陰太陽暦)から現在の新暦(太陽暦)に切り替わりました。
なぜ突然に改暦が行われたのか、それは明治維新によって徳川時代の鎖国から開国となり、欧米との貿易にあたり、旧暦では諸外国との日付けが合わず、どうしても手続き上での摩擦が生じるためでした。
太陰太陽暦
暦のことを「日読み」あるいは「細読み」ともいい、その言葉の示すとおり日を読む、こまかく読むことが暦の語源といわれています。
暦の基準を決めるのに月の満ち欠けを用いるものと、太陽の周期を用いるものとがあります。
太古の時代は月の満ち欠けを基準にした太陰暦が多く、月が満月になり、やがて欠けだし、さらにまったく欠けて新月となります。
そして、また少しずつ顔を出し始めて再びもとの満月に戻ります。
このことを朔望月といい、朔望月に要する日数は約29,5日かかります。
この一朔望月(29.5日)を12倍すると一年は約354日、この354日を「一太陰年」といいます。
現在の一太陽暦は365日であり、一太陰年との差は11日となり、3年でなんと一ヶ月程度のズレが生じることとなります。
これでは暦の役に立ちません。
そこで、そのズレを無くすために太陰太陽暦が考え出されました。
私達が一般に旧暦といっているのはこの太陰太陽暦のことです。
暦と気学
現代の暦には一般社会の約束事のほか、十干十二支、九星などがのっています。
私達人間は、この世に生まれた時にオギャーと第一声をあげますが、その産声こそが、この地に満ちている大気を吸った時です。
その吸った大気が、あなたの「気」であり、この気が人の一生に大きな影響を与えていくのです。
生まれたその年、その月、その日の大気を吸うことで、その人の性格や運勢が意義つけられていると考えるものです。
つまり、人間は「大気の化生」であるとの見方が成り立ちます。
この生まれた生年月日の判断の中心をなすことがらが干支と九星です。
それに五行が加わり、その人の性格や運勢を判断して、開運に導こうとするのが気学の根本となりました。
以上の様々な歴史的背景を経て、天と地、人間との関わりがヨーロッパでは西洋占星術、中国では九星術(気学)など、様々な占術の源となったのです。
九星術の気学の気とは、万物すべての本質であり、その気の運動が世のあらゆる森羅万象を創り出す「学問」であると言えるのです。
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